小説 ~ 症例A ~



症例A(しょうれいえー)
著者名:多島斗志之(たじま としゆき)
出版社:角川書店
発売日:2000/10
ジャンル:サスペンス、医療




「症例A」は、精神科に入院する一人の少女を担当する精神科医の視点と、国立博物館の勤務中に贋作疑惑の作品を発見した職員の視点、二つの視点からとある病院で発生する事件を描いた医療サスペンス作品です。

著者の多島斗志之さんは大阪府出身の作家で、「密約幻書」や「不思議島」の直木賞候補作といった数多くの作品があります。

そんな多島斗志之さんですが、2009年に親族に書置きを残して失踪するという出来事があり、それ以来は消息を絶っている状態ということです。


あらすじ


4年前に新しく設立されたS精神科病院、5月上旬、前任者からの引継ぎで一人ひとりの担当患者との面会を望む精神科医の榊(さかき)は、一人の少女を待っていました。

榊は精神科として10年のキャリアがありますが、S病院での勤務はまだ3日目です。

以前に榊が勤務していた病院では、利潤の追求が何よりも優先でした。その経営方針に同調できなかった彼がそこを辞職し、3ヶ月を無為に過ごした後で見つけた先がS病院でした。

医療法では入院患者48人に対して医師1人を配置することになっている精神科ですが、S病院では二十人ちょっとを担当すればいいという院長の久賀(くが)の希望があります。また、ECT(電気ショック療法)は必要最低限のみ、拘禁はしない、という久賀院長の方針があります。榊はそんな指針に共感し、新たな職場に馴染もうとしているところです。

榊の前任者は沢村という先生であり、事故死したと聞いています。


榊が気にしている患者の名前は亜左美(あさみ)、十七歳の高校生です。ただし、亜左美は仮名であり、本名や身元を知っているのは院長と事務長だけです。世間体を気にして仮名で入院することは精神科では珍しくないことであり、榊としても、外部向けの資料には<A子>と書くため、気にすることではありません。

前任者の沢村先生によると、亜左美の症状に関して精神分裂病であろうと診断しています。また、亜左美に関して、“ambivalence”、相反する考えや感情を同時に抱いていることを記録しています。

亜左美の希望により診察を病院の敷地にある梅林公園ですることになった榊は、沢村先生の診断記録と、亜左美との会話から、亜左美に対して、分裂症、離人症、衒奇症(げんきしょう)といった可能性を考え、慎重に対応を進めようとします。

可憐な外見と鋭い観察眼を持つ亜左美、突然、彼女は死体の話をしだします。榊はS病院の患者が自殺したこと、死体の発見場所がこの公園であったこと、第一発見者が亜左美であったことを以前に聞いていたため、診療のために、その内容を続けるか止めるか一瞬躊躇します。

しかし、亜左美が続けて放った言葉は、榊の迷いを吹き飛ばすものでした、“ちがうの。あの死体じゃなくて、沢村先生の死体のこと”__



上野にある首都国立博物館本館、そこに勤める今年30歳を迎える女性、江馬遥子(えま ようこ)は「金工室」の表示のあるドアをノックします。

部屋には金工室長の岸田がいて、海辺の美術館に貸していた重要文化財に指定されている弥勒菩薩像がブロンズ病に侵されていたことを嘆いていました。

何か用があるのかと岸田から問われた遥子は、とある手紙を岸田に渡します。その手紙は、昔博物館に勤めていた父宛てのもので、同じく博物館に勤めていた父の同僚から届けられたものでした。

その手紙には重要文化財に指定されている青銅の狛犬が贋作であるということが指摘されていました。

遥子はその手紙を自身が所属する学芸部企画課総合室の室長と課長に先に見せていましたが、厄介なものを持ち込むなと、見なかったことにされました。

しかし、物事をいい加減に処理することを嫌う遥子は、岸田と協力して、その手紙の真偽を追うことにします__



感想


ミステリー要素もある医療サスペンスです。人が死んでいて、精神障害の登場人物がいるとなればサイコ・スリラー・ホラー要素も出てくるのかなと当初思ってしまいましたが、いい意味で裏切られました。精神障害を医療という面から丁寧に扱って物語を進めている点でとてもおもしろく読み進められました。

後半の展開をまったく予想していなかったため、物語が意外なところに着地したように思います。この小説内でも言われていますが、精神科における治療というのは、足を骨折したといった類の治療ではないため、何を以って、正常に社会生活を送れるようになると判断するのか、これはなかなか難しいのではないでしょうか(脳男の精神科医もそんな感じだったかなぁ~と思いました)。

なお、この小説では国立博物館に勤務する職員がとある作品の贋作疑惑を追求していく話も平行して描かれています。これはこれでミステリー要素がおもしろいのですが、中盤は精神科医パートのほうがおもしろかったがために、読み飛ばしたくなる症状に駆られました。しかし、そこは冷静に、一つの作品として読み進めたほうが最終的にすっきりすると思います。

何より、タイトルの「症例A」が気にいっています。亜左美の仮名としての“A”、亜左美の症状を“ambivalence”と称した“A”、そして、主人公が具体的な病状を特定したい(名づけたい)が、それができずに便宜的にその症状を症例“A”と、精神科パートだけでも様々なタイトルの要因があります。

そして、博物館パートも踏まえたときに、“A”には“Authenticity”、「真偽」、「信頼性」を表すその言葉がもっともこの作品にふさわしい“A”なのではないかと思っています。

患者の病気は何なのか、博物館の展示品は偽者なのか、真偽であることの境界、正常と異常の境界をこの小説で考えさせられました。


そしてその医師はさらに言う。

――分裂病親和者は、人類にとって必要な存在なのだ。
遠い微かな危険の兆候を過敏に感じ取る彼らだけが、破滅へと向う人類の盲目的な行進にブレーキをかけることができる。
それゆえ、人類がかつて持っていた美質を滅ぼさぬためにも、分裂病親和者は、むしろその存在を貴ばれるべき人々なのだ、と。

ロマンティックな説だ。






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